HISTORY

ジャンル別

ジャンルで読む

Reggae レゲエ史

サウンドシステム、スタジオ、レコード、ダンス。

1970s-1980s

UK Reggae / Lovers Rock / Dub

移民の街で、レゲエは別の低音になった。

Windrush世代以降の英国で、レゲエはブルースダンス、サウンドシステム、Lovers Rock、Dub、2 TonePost-Punkと混ざった。Bob Marleyが1976年の襲撃後にロンドンへ移り『Exodus』を録った流れも、ジャマイカの音が英国経由で世界へ届く大きな節目になる。

レゲエは輸出されたのではない。人と一緒に移り住んだのだ。1948年のWindrush号以降、英国に渡ったカリブ移民たちはサウンドシステム文化ごと海を越え、ロンドンやバーミンガムの路上とホールに低音を持ち込んだ。その子供たち——英国生まれの二世が、70年代に自分たちのレゲエを鳴らし始める。AswadSteel Pulse。寝室で聴く甘い発明ラヴァーズロックが生まれ、Janet Kay「Silly Games」は全英2位まで届いた。ダブはこの島で礼拝に似た何かに変わり、やがてポストパンクと混血する。ジャマイカの音楽は、英国で英国の音楽になった。そしてこのUKの土壌が、のちのジャングルもダブステップも育てることになる。

聴きどころ

甘いメロディの奥にある重いベース、住宅街のパーティ感、Dubの残響、PunkやPost-Punkに渡った空間処理。

Timeline

1948-

Windrush以降、カリブ系移民のコミュニティが英国の音楽環境を変えていく

1970s

ブルースダンスとサウンドシステムが、レゲエを街の共同体メディアにする

1976-77

Bob Marleyがロンドンで『Exodus』を録音し、レゲエの世界的な見え方を広げる

late 70s

Lovers Rockが英国ブラックカルチャーの親密なダンス音楽として育つ

80s

Mad Professor/Ariwa、Dub、2 TonePost-Punkを通じて低音とエフェクトが広がる

顔ぶれ/現場/レーベル

関連キーワード

音源・人物・現場

Archive

要点

UK Reggaeは、ジャマイカの音が英国の生活に入り、別の低音になった記録。甘いLovers Rockと、鋭いDub/Poetryが同じ街で鳴っている。

Lovers Rockは逃げ場でもあった

人種差別、緊張、警察との摩擦がある日常の中で、Lovers Rockは若いブラック・ブリティッシュに親密なダンスの場所を作った。甘い歌の奥に、生活の重さがある。

Bob Marleyのロンドン

1976年の襲撃後、Marleyはロンドンへ移る。そこで録られた『Exodus』は、政治的な危険から距離を取りながら、レゲエを世界の言葉へ押し出した一枚になった。

低音は次のUK音楽へ残った

サウンドシステム、Dub、トースティングの感覚は、Jungle、Drum & Bass、UK Garage、Grimeへ流れる。UKのベース文化は、レゲエの続きを別の速度で鳴らした。

関連キーワードUK Lovers Rock Janet KayDennis Bovell dubBob Marley Exodus LondonMad Professor Ariwa
なぜロンドンにレゲエが根付いたか
編集部

マーリーが1977年にロンドンへ「脱出」できたのは、偶然ではない。ロンドンには、レゲエがすでに生活として存在していたからだ。

起点は1948年、カリブ移民を乗せたWindrush号の到着。以後の移民世代は、労働力として海を渡ると同時に、週末の楽しみ方——サウンドシステムの文化をまるごと持ち込んだ。壁のようなスピーカー、ダンスの興行、盤の競り合い。1959年の屋内カーニバルを前史に、1966年から路上で始まるNotting Hill Carnivalは、その文化が路上に出る年に一度の祭りであり、英国の若い耳にとっての学校になった。

流通も早かった。TrojanIslandがジャマイカ音源を英国市場に流し込み、スキンヘッズと呼ばれた白人労働者階級の若者までがアーリーレゲエで踊った。つまり受信環境は60年代のうちに整っていた。

70年代、主役が交代する。移民二世——英国で生まれ育った世代が、聴く側から鳴らす側に回ったのだ。バーミンガムのSteel Pulseは地元ハンズワースの現実を歌い、ロンドンのAswadは英国育ちの視点をルーツレゲエに乗せた。そして夜の側では、Dennis Bovellらがラヴァーズロックという寝室育ちの様式を発明する。Janet KaySilly Games」(1979)が全英2位。移民の子の音楽が、お茶の間のチャートに届いた瞬間だった。

UKレゲエはその後、2 Tone、UKダブ、ジャングル、ダブステップへ接続した。移民が持ち込んだサウンドシステム文化は、英国で別の音楽を生む土台になった。

このコラムで聴ける曲 Janet Kay『Silly Games』
ジャマイカのダブとUKダブは、なぜ違う音になったか
編集部

同じ「ダブ」の名で呼ばれるのに、ジャマイカのダブとUKのダブは、聴けばだいたい区別がつく。この違いはどこから来たのか。

出自が違う。ジャマイカのダブは、シングルB面のversion経済から生まれた。ダンスで使う伴奏面を作る作業の中で、King Tubbyらがミックス卓の即興に踏み込んだ——いわばスタジオの副産物であり、現場の経済の産物だ。一枚のシングルの裏面という制約の中で、短く、鋭く、遊ぶ。

UKのダブは、別の必要から育った。移民コミュニティにとって、サウンドシステムのセッションは娯楽であると同時に、精神生活の場でもあったと言われる。Jah Shakaのセッションはダンスというより儀式に近い持続で知られ、低音は踊らせる道具である以上に、浴びるものだった。作り手の側も、Dennis BovellMad ProfessorAriwa)のように自前のスタジオを構え、B面ではなくアルバム単位でダブを設計した。さらに80年代にはAdrian SherwoodOn-U Soundのように、ポストパンクダブが正面衝突する回路まで生まれる。これはジャマイカでは起こりようのない混血だった。

まとめれば——ジャマイカのダブは現場の経済が生んだ即興で、UKのダブは移民の生活が育てた建築、という対比になる。気候も効いているだろう。屋外のダンスの島と、屋内に籠もる冬の国。同じ技術が、渡った先の生活によって別の音になる。

この「渡った先で変異する」話には続きがある。ダブはこのあとベルリンでテクノと合流し、ライプツィヒでゲーム機と出会い、LAでビートミュージックの底に沈む。その物語はDEEP CUTSの側で書かれている。

DubVersionKing TubbyJah ShakaDennis BovellMad ProfessorAriwaAdrian SherwoodOn-U SoundPost-PunkBerlinLeipzigLA Beat Scene

Lineage

系譜

Essential

この時代の5枚

01
Steel PulseHandsworth Revolution』 (1978)

英国の黒人街の現実をルーツで歌った金字塔。地名がタイトルになる意味

04
AswadLive and Direct』 (1983)

カーニバルの熱をそのまま盤にしたライブ盤。UKレゲエの現場の音

05
Mad ProfessorDub Me Crazy』 (1982)

UKダブの建築性。B面文化がアルバム芸術になった証拠

アーティスト

この時代の10組